人と研究

医学への信念をもとに、東北大医学部の歴史を切り拓いた先人たちの足跡をご紹介します。その研究は、現在の本学医学部の研究•臨床の礎になっただけではなく、国際的な視点から見ても、様々な形で今日の医学の発展に貢献しています。一方で、この偉大な研究者たちは、各人が真摯な、あるいは独創的な、味わい深い人となりの持ち主でもありました。

本川 弘一

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本川 弘一

Koichi Motokawa

東北帝国大学医学部 第二生理学教室 2代教授/医学博士
1903年(明治36年) 1月17日生まれ。
1929年(昭和4年) 東京帝国大学医学部卒。1940年(昭和15年) 東北帝国大学医学部教授。1954年(昭和29年) 学士院賞、朝日文化賞を受賞。1965年(昭和40年) 東北大学学長。

昭和初めの日本に脳波学を定着させた研究者

第二生理学教室2代教授本川弘一は、日本の脳波学の父。1927年(昭和2年)には日本脳波学会を創設し、これにより東北大学は日本の脳波学発祥の地とされています。

学問へと一念発起した本川は、旧制中学校の卒業資格試験と同時に旧制高等学校の入学試験に及第。当時高等学校は人材が集中する難関中の難関です。
東京帝国大学医学部に進んだ本川は、理学部の物理講義も5~6年かけて聴講し生体電位の解析知識を研鑽しました。この東大時代は蛙の皮電位の研究で20篇以上もの論文を書いています。大学は社会的な立身出世の場との意味合いが強い当時、本川のように卒業後も留まる研究型の大学人は異彩でした。

1940年(昭和15年)本医学部教授に就任した本川は、片腕の三田俊定と共に脳波増幅器の製作に挑戦し日本で初めて増幅器を完成させました。生理学といえば神経や筋の研究が先行した日本でこの成果は独自の光を放ちました。1947年(昭和22年)年出版の単行本「脳波」は、本川の脳波研究を伝えています。

医学部史に刻まれるダイナマイト事件

増幅器の真空管が並ぶ脳波研究の光景は当時最新のものでした。そんな本川の研究の立ち位置を語るのが、本医学部史に残るダイナマイト事件です。これは、本川が脳波という電波を放射し自分の脳が変調をきたすと信じた精神患者が、教室に爆弾をしかけた大事件です。

1954年(昭和29年)9月、大学院生だった田﨑京二(第二生理学教室3代教授)は、水をたたえた洗面器を持って廊下を歩く本川に会いました。大先生に声をかけがたい医学生らの中、本川と交流のあった田﨑が理由を尋ねると「部屋に火をつけた者がいる」との返事。悠長にも見えた水の量に田﨑が慌てて教授室に入ると机の下に紫色の風呂敷包みがあり、結び目から線香のような煙が昇っていました。
ダイナマイトの導火線は特有の匂いがしますが、教室の面々は誰もこれを知らず、水びたしにしても導火線が消えない荷を不穏に思った田﨑は、ついに窓から荷を投げました。荷は医学部の中庭で爆発、駆けつけた警官と事務局員が負傷し、爆風は生理学教室や細菌学教室などの建物を突き抜けて裏手側のガラスまで吹き飛ばしました。その枚数500余枚といいます。幸い死者は出ませんでしたが、犯人は教授室を去ったその足で駐在所に入り、警官に意気軒昂と「世の為になることをしてきた」と語ったといいます。

この同年、本川は「脳電位の研究」で学士院賞を受賞しています。脳波研究の先進性をうかがえる話です。

鷹揚な気質と、学生の資質を見抜く目

指導者の本川は、不思議と学生を叱らぬ人物でした。こうしろとも言わず、しかし学生が自分で適正な結論を出すよう導くのが巧みだったといいます。先述の3代教授田﨑は理学部から医学部第二生理教室に転身しましたが、転身の相談に「医学やってみればいいだろう。君は数学と物理に詳しいから生理学に向いているよ」と鷹揚に請け合ったといいます。

書に造詣が深く、後年は美しい書画も為した本川にはこのような話も残ります。
本川は正月ごとに教室生全員を自宅に招き、大部屋を開放して学生が目を見張るご馳走をふるまうのが恒例でした。これは本川の妻が手間をかけて準備した料理です。
ある年、本川は書画を並べた室に学生らを呼び、1人1枚持っていくよう声をかけました。例えば学生が竹の画を選ぶと「なるほど...君だねえ」とにこにこ頷いたといいます。実は、1枚に限定すると人は真剣に選ぶため、選ぶ画で学生を観察し楽しんだようです。
そんな本川は、1966年(昭和41年)東北大学第12代目学長に就任。1971年(昭和46年)に急逝するまで学舎の発展に力を尽くしました。

取材元:田﨑京二(東北大学名誉教授)
文責:医学部広報室

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