百周年レポート

研究第一、実学尊重、門戸開放の校風のもと、多数の留学生も机を並べる学内では、それぞれに医学・医療・福祉への強い意志を持った学生や研究生が、第一線の「学び」を実践しています。長い歴史をもち、研究と医学教育の最前線である本学医学部の、過去、現在、そして未来についてレポートします。

母校の昔を想う ~開学から終戦の頃まで~

山本 敏行|第29代医学系研究科長・医学部長

東北帝国大学開設まで

 帝国大学は全部で9大学つくられております。東北帝国大学は、東京帝大・京都帝大に次ぐ第3番目の大学として、明治40年に創設されました。それより前、高等教育機関として高等学校が全国につくられたのですが、高等学校では、東京に第一高等学校が、次に仙台に第二高等学校が、そして京都には第三高等学校が置かれました。帝国大学の創設では、仙台と京都でその順番が逆になってしまいました。東北に次いで4番目に開設された九州帝大は、すでに福岡にあった京都帝大の第二医科大学を取り込んで明治44年に開学しています。したがって母校は、帝国大学としては九州帝大より早いが、医科大学としては九州帝大医科大学より遅く、第4番目の開学となります。

開設当初の東北帝国大学医学部

 完成した母校医学部は基礎12講座、臨床12講座という組織でありました。当時、基礎の解剖学の3つの講座には、教授が2名しかおられませんでした。また臨床の講座では、外科学の3つの講座で整形外科を担当する講座が確立しておらず、教授も欠けていました。したがって、教授の数は医学部全体で22名でありました。この24講座、教授22名の体制で、20数年間が過ぎることになります。
昭和14年になって初めて1講座の増設が行われました。それは加藤豊治郎教授が進めておられた航空医学講座の新設です。次いで、昭和16年に放射線医学講座が生まれ、古賀良彦教授が就任されました。古賀先生はすでに昭和8年に母校医学部に着任され、放射線医学の授業を担当しておられました。しかし、講座も診療科も認められていなかったので、そのご身分は皮膚病学黴毒学講座助教授となっておられました。昭和17年には三木威勇治先生が整形外科学講座助教授に着任され、19年に教授に昇任されまして、これによって外科学の3講座は、外科学講座が2講座と、整形外科学講座となりました。かくして母校医学部は、基礎・臨床それぞれ13講座ずつ、教授25名という体制となり、終戦を迎えたのであります。
昭和10年代に入ると医師の不足が際立ち、若い医師の養成が急務とされました。これには軍の意向が強く働いていました。そこで国は、帝国大学医学部と、当時6つあった単科の国立医科大学に臨時付属医学専門部を設けました。母校医学部でも昭和14年にこの制度が始まり、同17年9月に初めての卒業生を送り出しています。この制度の元で、中学校を卒業して医学専門部に入学すると、制度上は4年、実際には3年半の教育を授けて卒業させ、卒業すれば医師免許が与えられました。戦後、生徒の募集を停止し、在籍者全員を卒業させてこの制度は廃止になりました。

医学部初の総長

 私は昭和19年10月に東北帝国大学医学部に入学したのですが、当時の東北帝国大学総長は第七代熊谷岱藏先生でした。熊谷総長時代に、東北帝大には8つの研究所がつくられています。その間全国の帝国大学につくられた研究所は20であったから、その4割を本学が占めたのでありました。8つのうちの1つは航空医学研究所で、加藤豊治郎教授が所長に就いておられました。敗戦後、進駐軍によって航空に関する研究はいっさい禁止されて、この研究所は取り潰しになってしまいました。医学部には、それ以前に航空医学講座がつくられていました。この講座も廃止されることになったのですが、廃止と同時に生理学第3講座を臨時に新設し、人員も機材もすべてそちらに移しました。この措置により、事実上は講座名の変更によって取り潰しを免れたのでありました。そして、のちの応用生理学講座へとつながるのであります。

以上母校「医学部開設から百年の歩み」のうち、開設から終戦までを概観してみました。

山本 敏行

第29代医学系研究科長・医学部長。東北大学名誉教授。専門は解剖学。

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