百周年レポート

研究第一、実学尊重、門戸開放の校風のもと、多数の留学生も机を並べる学内では、それぞれに医学・医療・福祉への強い意志を持った学生や研究生が、第一線の「学び」を実践しています。長い歴史をもち、研究と医学教育の最前線である本学医学部の、過去、現在、そして未来についてレポートします。

「東北大学医学部百年の歩み」 

平 則夫|いわき市病院事業管理者/第31代医学系研究科長・医学部長

只今ご紹介頂きました平 則夫でございます。東北大学医学部開設百周年記念祝賀式典で、「医学部百年の歩み」のスピーカーの一人としてご推薦いただきましたこと、大変光栄と存じ、医学研究科長・医学部長の下瀬川先生のご高配に厚く御礼申し上げます。私は、昭和27年に東北大学医学部に入学し、平成7年に停年退官するまで、インターンとハーバート大学医学部留学期間を除きますと、通算41年間医学部におりました。その中で、医学部の歩みという視点からは、医学部の管理運営に深く係わった停年退官までの5‐6年間に遭遇した、スケールの大きい5つの案件が最も強く印象に残っております。この5つを自分の怪しげな記憶と、医学部事務から閲覧させて頂いた当時の医学部教授会議事要録と、当時の関係者のお話を頼りに書き始めましたら、原稿は優に10000字を超えてしまい、読み上げると1時間にもなりました。それで、時間の関係上、1つだけを、しかも、正史としてではなく、裏面史としてお話しいたします。

「医学部附属リハビリテーション医学研究施設の廃止と大学院医学系研究科障害科学独立専攻の設置」

その1つとは「医学部附属リハビリテーション医学研究施設の廃止と大学院医学系研究科障害科学独立専攻の設置」です。リハビリテーション医学研究施設は昭和19年に創設された鳴子分院に、昭和30年に併設された医学部附属温泉医学実験所に始まります。しかし、鳴子は仙台から遠いために、若い研究者には敬遠され勝ちで、しかも、施設には温泉医学研究のために温泉が引かれていたために、腐食性のガス濃度が高く、研究機器を更新しても直ぐ錆びて劣化してしまうので、仙台への移転は研究施設の教職員の悲願でもありました。しかし、星陵地区でも、医学部の敷地の狭隘さ、文部省の縦割り行政、国費での建築物の使用年限などの問題で、歴代の医学部長のご努力にもかかわらず、移転は実現しませんでした。しかし、障害学部門の中村隆一教授と臨床治療学部門の佐藤徳太郎教授の意気込みは、並々ならぬものであり、医学部長として、その意気込みにほだされてその実現に助力することとしました。そこで、移転先を探し始めましが、適地が見つかりませんでした。それで、移転するなら、医学部附属病院本院と統合する以外にないと考えるようになりました。それと平行し、リハビリテーション医学・医療の重要性の社会的認識の高まりとともに、高度な知識を持った理学療法士や作業療法士など医療補助者の育成の必要性が見込まれ、単なるリハビリテーション医学研究施設の移転に留まらず、当時わが国にはほとんどなかった医療補助者の大学院コースを創設してはという考えに凝集し始めました。そして、この推進には当時教養部改編に伴う教官の移籍問題の解決も後押しとなり、平成6年6月に東北大学大学院医学研究科内に3講座6分野からなる障害科学独立専攻が発足し、リハビリテーション医学研究施設は廃止となり、その施設の2部門、すなわち、臨床治療学部門と障害学部門はそれぞれ、障害科学専攻の中の内部障害学分野、肢体不自由学分野として包括されました。そして、非医学部卒業者を対象とする独立専攻を包括するために、東北大学大学院医学研究科は同医学系研究科と改称されました。そして、鳴子分院は当時の森 昌造東北大学医学部附属病院長のご尽力によって、本院に統合され、本院は病床数で最大級の国立大学医学部附属病院になりました。このようにお話ししますと、障害科学独立専攻は苦労なしに誕生したようにお思いかもしれませんが、当時この案件を担当していた医学教育課課長補佐の井上氏は、文部省内でもきついことで折り紙つきの官僚で、このような独立専攻の大学院を作っても、応募者はいるのか、修了者が就職できる職場があるのか等の疑問を投げかけて来、なかなか承知してくれませんでした。確か、氏との交渉は、文部省で、当時の土生木典男医学部事務長と一緒に行いましたが、医学教育課の会議室で、午後1時過ぎから始めたものの、交渉は妥結せずに予約時限切れになってしまい、氏はもう止めようと退室しようとしました。しかし、氏とは吉永 馨前医学部長から引き継いだ案件で顔馴染みとなっていましたので、継続を粘りましたら、学術国際課の会議室に場を移して話し合いを続けてくれました。しかし、それでも妥協には至らず、午後5時を過ぎたので閉じて人気のなくなった職員食堂の片隅で漸く決着しました。正に私の人生の中のthe longest dayでありました。

このようにして障害科学専攻(修士課程)を作ってみたものの、高次機能障害学分野の教授招聘ではまた、大変な問題に遭遇しました。東北大学医学部では、教授候補者の決定は教授会で行われますが、その候補者が学内者の場合、本人が承諾すれば、教授に任命されます。しかし、他の大学や研究機関からの場合、通例所属長に割愛願いを出し、許可をもらいます。山鳥 重先生は、かくして、平成5年9月29日の臨時教授会で、教授候補者として選出されましたが、その時山鳥先生は兵庫県立高齢者脳機能研究センターの所長をしておられました。すなわち、山鳥先生は兵庫県の職員でいらしたわけです。それで、早速、当時の兵庫県知事の貝原俊民氏に割愛願いに参上しようと思って、連絡をとりましたら、面会拒否なのです。それでも私は、貝原氏に面会し、割愛して頂くべく、遥々神戸市中央区の兵庫県庁に、土生木事務長と共に2回も参上しましたが、2回とも門前払いを食わされました。聞くところによれば、当時、貝原氏は、知事選で、今後増えることが確実な脳機能障害の高齢者に対処するため、兵庫県立高齢者脳機能研究センターの設立を公約の一つとして掲げて当選されたらしく、研究センターは設立したものの、その重鎮である山鳥先生に抜けられたので、公約違反になりかねないので、割愛を断ったのではないかということでした。一方、山鳥先生は神戸医大のご出身で、神戸大学医学部には、丁度この案件が起こった頃、運よく、旧友で細菌学の本間守男先生がおられ、1年前に神戸大学医学部長の任期を終えられたところでした。そして、本間先生のご後任の医学部長は奇しくも山鳥 崇先生で、山鳥先生のご令兄でもあられました。お二方には訪問の上、この問題の解決へのご援助をお願いいたしたわけですが、医学部長の山鳥先生はこの問題への介入には慎重であられたようです。それで、県への折衝は主に本間守男先生がされたようですが、兵庫県知事と本間先生の間に立って善処に当ってくださったのは、山鳥先生の先輩で、当時県の理事をなさっていた安井博和先生でした。本間先生と安井先生のご尽力のお蔭で、終局的には、東北大学は山鳥 重先生をお迎えできました。お断りしておきますが、これらの動きはすべて山鳥 重先生の与り知らないことです。くれぐれも誤解なきようお願いいたします。

記念祝賀会での鏡割り

障害科学専攻と4号館

ところで、障害科学専攻に入って頂くための建物、現在の4号館ですが、その建築の最終案は平成6年8月4日の臨時教授会で決まり、第1期工事で、平成7年11月に竣工しました。ところで、ナンバーの付く研究棟は、欲しいからといってそう簡単に出来るものではありません。先ず文部省に概算要求を出します。しかし、それが認められるまでには通常何年も掛ります。ところが、われわれの場合第一期工事で出来たのです。当時、文部省は画像医学教育の推進に着手し、このシステムの導入に対しての打診がありました。このシステムの導入に当たっては1学年の学生数に相当する台数のパソコンを設置してやるとのことでしたので、打診を受けるなり早速導入に手を上げました。これが幸いしたのです。土生木事務長はこのシステムの導入のための教室と障害科学専攻の研究室とを抱き合わせにすることとし、当時の文部省への通常の建設要求手続きとは違ったウルトラCの手法(ご想像に任せます)を用い文部省に折衝を始めました。その結果、『画像医学教育システム』を5、6階に擁し、2、3、4階を障害科学専攻の研究室とする6階建ての4号館が完成したのです。土生木事務長のご努力と文部省、大学施設部を始めとする関係各位のご高配に深く感謝いたしております。とはいえ、最初に申し上げましたように、私が停年退官したのは平成7年3月ですので、竣工したの久道 茂医学部長になってからで、竣工式典には来賓としての出席になりました。平 則夫はついていませんね。
ご清聴有難うございました。

平 則夫

第31代医学系研究科長・医学部長。東北大学名誉教授。専門は薬理学。

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