人と研究

医学への信念をもとに、東北大医学部の歴史を切り拓いた先人たちの足跡をご紹介します。その研究は、現在の本学医学部の研究•臨床の礎になっただけではなく、国際的な視点から見ても、様々な形で今日の医学の発展に貢献しています。一方で、この偉大な研究者たちは、各人が真摯な、あるいは独創的な、味わい深い人となりの持ち主でもありました。

鈴木 二郎

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鈴木 二郎

Jiro Suzuki

東北大学脳疾患研究施設 脳神経外科教室 初代教授/医学博士
1924年(大正13年) 10月2日生まれ。
1950年(昭和25年) 東北大学医学部卒、1967年(昭和42年) 東北大学脳疾患研究施設教授。

未開拓の、脳神経外科学の広野を進む

本学医学部の脳神経外科教室には、1964年(昭和34年)の創設当初からの日誌があります。これは同年、同教室の初代教授に就任した鈴木二郎が記録の重要性を認識して始めさせたもので、現在はデジタル日誌となり約50年の継承を守っています。

初代教授の鈴木が東北大学医学部附属病院長町分院(現・広南病院)を拠点に診療を開始した頃、脳神経外科学はほぼ手つかずの分野でした。鈴木は開拓の気概に溢れ、研究に情熱を注ぐ一方、臨床では徹底した患者第一主義者でした。また、1986年(昭和61年)の63歳の時には、実に2000症例目の脳動脈手術を為しています。

Moyamoya disease

鈴木による「Moyamoya disease」(モヤモヤ病)の命名と病態解明は、現在も世界中の脳外科医が知る仕事です。モヤモヤ病とは、脳底部に煙草の煙のような異常血管網が広がり、失語症や重度の麻痺などを引き起こす疾患で、当時から症例だけは様々な名で公表されていました。
鈴木はこの病態究明に着手。遂に病の本体が内頸動脈(頭部主要血管)の狭窄に始まり、そして脳への血液供給を補うために血管網が異常発達する「進行性」の病理であること、最終的に外頸動脈が脳膜内に血管を形成し始める全容を解明。世界に発表しました。 当時は症例収集も容易ではなく、鈴木はたった20症例の徹底的な予後調査によって、これを正しく見極めました。現在も世界中でmoyamoya diseaseという名前が使われ、鈴木が報告した病期分類が使われています。

独特のカリスマ性を備えたリーダー

かつて医学部には、毎週水曜早朝6時の名物風景がありました。鈴木の号令下、教室総動員で行われた大音量の音楽による海軍体操です。
海軍在籍の前歴を持つ鈴木は、教室運営に海軍風の厳格さも採用しました。というのも脳の臨床現場は、時に直径1mm以下の微細な脳血管の処置を行い、少しのミスが患者の絶命や五体の障害を招きます。 鈴木は何度も修練されて無駄が省かれたスマートさを重視。教室は5分前行動が鉄則で、医師の不手際は手術中でさえ大声で怒鳴りました。医師達は「鈴木回診対策」として、患者のプレゼンテーションを念入りにシミュレーションし、万端に準備を整えました。

鈴木の厳しさの前提には患者の命と生活を預かる臨床があり、また、これらがスマートな海軍の風を受けていた点が「鈴木式」だったかもしれません。「人間モタモタしては駄目だ。極めればスマートになる」と鈴木は何度も門下生に語りました。
一方で、独特の愛嬌も持っていた鈴木は、学生を深く魅了する教育者であり、その足跡は国境を越え韓国や中国、南米など世界中に広がっています。

継承される「患者中心」のプロフェッショナル環境

鈴木が残した「医戒」に、「其の人の脳に触れうる者は吾人、脳神経外科医のみなり」という一項があります。
現在の脳神経外科にも、万一、術後の患者が悪化した時、どんな理由であれ主治医達を叱ったという鈴木のスピリッツがしっかり継承されています。
これは患者の予後に万全を期す脳医療の追求の現れであり、妥協を排除する環境は、医学生や医師達に脳神経外科への誇りを与えます。常に世界の先端を進む脳医療と次代の教育が自然に実行される気風。これが、鈴木が後世に残した最大の功績といえるのかもしれません。

取材元:冨永悌二(東北大学脳神経外科教授、東北大学病院脳神経外科科長)
文責:医学部広報室

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